法縁寺 – やくよけ祖師 本山 堀之内妙法寺

日蓮宗 本山 やくよけ祖師 堀之内 妙法寺

 
 

法縁寺院ほうえんじいん

天正元年から慶長の頃(1573~1600)にかけて、宗門僧侶の教育機関として「檀林」という学校のようなものが各地に開設されました。下総飯高(千葉県匝瑳市飯高)をはじめ各地に開設された檀林は、元和年間頃(1620)から半世紀の間に関東・京の地に更に十数カ所が開設されました。代表的なものに、飯高・小西・中村の関東三大檀林があります。

やがて中村檀林が東谷(ひがしさく)と西谷(にしさく)に分けて互いに切磋琢磨し行学の増進を競いました。これに倣い諸檀林も両谷に分けて指南するようになり、これを谷指南(さくしなん)と称しました。そこで学んだ者たちは、その学徳を敬慕し、その名のもとに系統を形成し、それに属する者が寺の住職となり、弟子を育てる。そして、またその弟子が住職となり、弟子を育てるというように学系の一つとして定着していきました。この学系・団体を法縁・法類・法眷(はつけん)と呼ぶようになりました。

本山 興津 妙覚寺ほんざん おきつ みょうかくじ

由緒寺院。山号は広栄山。開山は日蓮聖人。 開基檀越は、興津の領主佐久間重貞公。「布曳きの祖師」御奉安。日蓮聖人によって創建された日蓮宗最初の由緒寺院。日蓮聖人十日間説法の霊場として知られています。妙覚寺の妙覚とは、妙法蓮華経(法華経)の悟り、仏の慈悲と救いのことです。

文永元年(1264)十月、日蓮聖人は母・妙蓮尊尼の重病を聞き、故郷房州へお帰りになりました。しかし大聖人が着いた時、すでに母の臨終のあとでした。 日蓮聖人は、しばらく悲嘆にくれていましたが、「定業も亦よく転ずるのが法華経の功徳である」と法華経に祈願されると、一旦息絶えた母が蘇生されました。この不思議を耳にした興津の領主佐久間重貞公は、日蓮聖人を城内の釈迦堂に招き、10月15日から24日までの10日間にわたって、法華経の尊い教えを聴聞されました。

佐久間重貞公は、出家して「日円」と号し、釈迦堂を寄進されました。またその家中一同だけでなく城下の者まで悉く改宗し法華の信者となられました。日蓮聖人は、この釈迦堂を最初の道場として広栄山妙覚寺と名付けられ、宗祖直創の霊跡地となっています。江戸時代には朱印地として二十五石を持ち、およそ十万石にあたる厚遇を受けていました。

文永2年(1265)頃、この興津港の付近沿岸一帯に疫病が流行して、多くの人が病に倒れ、死人が続出しました。人々の苦悩を見かねた領主佐久間重貞公は、日蓮聖人に病気平癒・現世安穏の祈願を懇望されました。日蓮聖人は、白布に「南無妙法蓮華経」と御題目をしたため、海に白布を浸して舟の艫に結び、布を曳きつつ病気退散・現世安穏の祈りを捧げたところ、忽ち人々の病気が治り、疫病もなくなったといわれています。このときの日蓮聖人のお姿を彫刻した尊像は、いつしか「布曳きの祖師」と称されるようになりました。この御尊像は、日蓮聖人お手植えの楠から彫られた一木三体の御尊像です。「布曳きの祖師」は、現在も妙覚寺に御奉安されており、病気平癒・所願成就を祈念すれば御利益あらたかだといわれています。

開基佐久間重貞公の末弟竹寿麿と重貞公の子息長寿麿は、日蓮聖人の弟子となり、それぞれ寂日坊日家(じゃくにちぼうにけ)、郷公日保(きょうこうにほ)と称しました。両上人は、日蓮聖人御生誕の地に法華経の道場を建てようと誓願を起こし、小湊誕生寺を創建されました。誕生寺は開山を日蓮聖人、2世を日家上人、3世を日保上人となっており、これに対し興津妙覚寺は開山を日蓮聖人、2世に日保上人、3世に日家上人がなられております。この由縁により、興津妙覚寺と小湊誕生寺は、「両寺一根」と称されています。

本山 滝谷 妙成寺ほんざん たきだに みょうじょうじ

由緒寺院、山号・金栄山(きんえいざん)。
北陸地方における日蓮宗の本山・妙成寺は、能登半島羽咋の里滝谷(石川県羽咋市)にあります。 永仁二年(1294)、日蓮聖人の師命により妙法を京都に弘めるため京都に向かう途上の日像上人が、佐渡より七尾への船中で石動山天平寺の座首・満蔵法印と法論となった。 満蔵法印は法華経に感銘を受け、自らの修行する石動山に日像上人を招き衆徒の前で法華の教えを説きました。 ところが衆徒はその説法に悪口罵言し、暴徒と化して二人を襲いました。 二人は急いで山を下り、滝谷の地へと逃げ延びました。危うく難を逃れた二人は、雄滝・雌滝のある白山社で傷を癒したとされています。

日像上人は、鎌倉より携えていた槐(えんじゅ)の杖を地面に挿して「この杖より根が生ずるなら、汝この地に法華経の寺を建立すべし」と満蔵法印に言い残し、京都に向かいました。まもなく杖より根が生え始めたので、満蔵法印は名を「日乗」と改め、開山を日像上人、自らを第二祖としてこの地に妙成寺を建立しました。

天正2年(1574)、能登の国の領主となった前田利家が領内を巡視した折り、妙成寺に立ち寄り、時の貫首第11代日充上人に寺の縁起を聞き、ここを武運長久・領内安堵の祈願所と定め寺領を寄進した。慶長8年(1603)には、熱心な法華信者だった利家の側室寿福院(三代藩主利常の母)の帰依を受け、その子の加賀藩三代利常は母の志をくみ、その寄進によって本堂が建立されました。以来、加賀藩前田家から厚い庇護を受け、70年をかけて七堂伽藍を建立し、寛永8年(1631)には、加賀藩三カ国の総録所となりました。

現存している建造物は、加賀藩前田家初代から五代に亘って造営されたもので、十棟が国指定重要文化財。三棟が県指定文化財となっています。殊に三代利常の代に生母寿福院の菩提所となってからは、本堂・祖師堂・五重塔が続けて造立されています。 大工棟梁は、前田家の御用大工・坂上又三郎親子が四代に亘ってつとめ、七堂伽藍を築きあげました。 その建築様式の特徴は、桃山時代とその系統を引く江戸初期のもので、唐様式(禅宗様式)です。 しかし伽藍配置に関しては、唐様式に独特の創造を加えたものになっています。

本山 村田 妙法寺ほんざん むらた みょうほうじ

由緒寺院、山号・法王山(ほうおうざん)。 北陸地方における弘法の拠点。本山・妙法寺は、JR越後線「妙法寺駅」のすぐ近く、日蓮宗寺院では唯一、寺名がJR線の駅の名になっています。新潟県の長岡市の西北を流れる信濃川の河岸流域、大河津分水路の近く、旧三島郡和島村大字村田にある妙法寺は、徳治元年(1306)六老僧成弁阿闍梨日昭上人(じょうべんあじゃりにっしょうしょうにん)によって開創されました。

日昭上人は、日蓮聖人より一歳年上で、宗祖日蓮聖人が建長5年(1253)に立教開宗の後、清澄寺を下りて鎌倉在住の頃、その学徳を慕って膝もとに参じ、師弟の契りを結ばれたといわれています。

日蓮聖人は、日昭上人を弁殿と呼び、自分に代わって教団を指導する人物とみなしていたといわれます。 日蓮聖人の生前歿後は、鎌倉で教えを弘め、元享3年(1323)百三歳で入寂されました。

開基檀越は、信濃・越後両国の太守、風間信濃守信昭です。信昭公は、幼少の折、鎌倉で日昭上人の教えに触れ、その法力によって長寿を保ちそれが縁となり日昭上人の一字をもらい、信昭と名乗りました。以来、信昭公は、日昭上人の外護者となり、上人のために浜土に法華寺(後の妙法華寺)を建立いたしました。また宗祖25回忌には、相州・名瀬に妙法寺を開きましたが、北越の地に法華の道場が無いことを憂い、日昭上人入滅の年に名瀬の妙法寺を村田の地に移し、北陸道における仏法興隆をはかられました。以後、これによって風間氏が寺領350国を附し、本山たる寺格を整えました。

この後、開基檀越の風間信濃守信昭公が南北朝の動乱の中で戦死すると、多大な影響を受けることとなりましたが、歴代住職の努力によって復興も進み、旧観を偲ぶに至りました。しかし、この後も天正19年(1591)には火災により諸堂宇等を焼失。また明治元年(1868)には、戊辰の役に際して当地は戦場となり、この戦いにより妙法寺は重要建築や寺宝などを失いました。幸いにも黒門・赤門・七面堂などは、本堂より離れていたために焼失を免れました。そして明治17年(1884)第53世日珠上人代には、本堂を再建。次いで第55世日貫上人代には千仏堂を建立し一切経を蔵護しました。

妙法寺は元来、同旧和島村の日蓮宗智暦寺のあたりにあったといわれています。妙法寺第二十代頃までの墓碑、風間信昭公の墓所は、現在でも智暦寺の地内にあります。現在の地に移った理由とその年代は不詳ですが、寺域全体が風間信昭公の弟・村岡三郎公の居城跡であることから、両将追善のために第33世本理院日称上人の時代前後に移築されたものと推察されます。